4/09/2018

悟りに憧れる俗人の悩み

愛読しているブログの最新投稿に以下のような記述があった。

『人間の最も惨めな生き方は、他人の目のなかで生きることだろう』
『自分の価値を発現する職業をみいだして、そこで、余人にはなしえないなにごとかを達成しようとすること自体が、いわば、自分の一生を危うくする発想で、別になにもしなくて、なにごともなしえないで終わっても、それのどこが悪いのか、ということを、両親から教わった』
『せっかく健康な肉体をもって生まれてきたのだから、自分が生きていることを満喫して、また彼岸に帰ればよいではないか。と、いまは思っている』
 『どんなに名を残そう、この世界に新しいものをつけくわえようと頑張ってみても、一個の完結した宇宙である以上、それは意識の意匠にしかすぎなくて、現実は、肉体と中枢神経が感受した「快」の積み重ねができて、死とともに雨散霧消するのでしかない』
『人間の言語が神を前提とし、善を願い、永遠という野原に自分を置いてみたがるのは、いずれも人間の意識が、自分が死ねば、この宇宙は無に帰するのだという寂寥に耐えられないからであるに過ぎない』

フランク・ザッパは死を目前にしてこう言った

インタビュアー「フランク・ザッパという人をどのように覚えていて欲しいですか?」
ザッパ「それは重要なことじゃない」
「全く重要ではない?」
「全くね」
「その音楽によって記憶されたいとは思いませんか?」
「覚えていてもらうこと自体重要じゃないんだよ・・・覚えていてもらえるかどうかを心配するのはレーガンやブッシュみたいな連中だ・・・奴らは覚えていて欲しいのさ。そして多くのカネと多くの努力を費やして、(人々の彼らに関する)記憶がスバラシイものになるよう念を入れるんだ」

禅は、石の上に降りて消える一片の雪のように生きよ、と教える。
ただ人生を無心に生き、何も残さずに終えよ、と。
人生に妙な目的など与えず、ただひたすらに命を全うすることの尊さを説く。

その潔さには憧れるものがあるが、やはりそれは「悟り」の境地にのみあるもので、俗で凡な人間はやはり何事かを達成してみたくなったり、それを他人に認めてもらいたくなったり、あわよくば後世にまで名を残したいなどと図々しいことを考えてしまったりするものだし、人々が自分をどう記憶してくれるか気になってしまうものだ。

それに残された側の人間にしてみれば、愛する人、尊敬する人をいつまでも覚えていたいと願うものだし、次の世代にまで、ずっと後世にまで伝えたいと思うのも仕方のないことであろうと思う。それが例え生きている人間の「意識の意匠にしか過ぎない」としても。例え地球や宇宙や、或いは人類が生き長らえる間だけの、有限の記憶だとしても。

だけど僕は最近「もっと好きなように、悔いの無いように生きなさい」というサインをあちこちで受け取っているような気がするのだ。他人の目の中で生きることを止めて、よく自分の本心に問うて、やりたいことをやって無心に生きてみたまえと。示されたその潔い悟りの境地と、俗人としての自分の世間とのしがらみの間で僕はどうしたものかなと思案する。尤もそれをこうしてブログに書き留めたり、更にはそれをSNSで紹介したりなどという行為は正に「他人の目の中に自分を置く」ことに他ならず、矛盾と俗の極みなのだけれども。

一昨年から昨年にかけて身体を壊した一因は「他人の目の中で生きる」ストレスにあったと言え、これをどのように解消するか、バランスを取って行くか、がここしばらくの関心事で。バランス・・・MUSOHの一番大事なテーマだというのに、自分自身の心のバランスが取れていなかったというオチか。いい歳なんだから、もう少し気持ちを楽に、楽しんで潔く生きることを覚えていかないとな。

清志郎も歌っていたじゃないか。
「人の目を気にして生きるなんて、くだらないことさ」

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