5/18/2012

覚醒した者だけが夢を語り得る

原発問題は出来るだけ追うようにしている。歴史をそれ以前と以後に分断してしまうような大事故の後、当然のことと思っている。そして関連するニュースや取材記事のリンクをTwitterRTしたり、Facebookに貼り付けたりし続けている。自分でも思うところを言葉にして書くこともある。情報を、問題意識を共有して初めて、「その先」が開けると考えるからだ。

非日本語圏の記事も紹介している。日本人以外の友人にも現状を知って欲しいし、そもそも日本のメディアが避け続けている案件に切り込んだ優良記事も多いからだ。

反応は鈍い。シェアしたり、何かコメントを残したりしてくれる人は大抵ごく限られた同じ人々だし、多くの人は読んだという痕跡すら残していかない。殆どの人は読んでいないのだろう。Facebookでは面倒くさい、鬱陶しいということで僕の投稿がNews Feedに流れないように設定してしまった人もいるかも知れない。

余りにも被災地や原発問題の現実が厳しすぎ、重すぎるから、目を瞑って遣り過ごしたいという人がそれだけ多いのだろう。しかしアーティストの端くれとして言わせて貰えば、アーティストこそ最も現実を直視して生きていなければいけないと思う。そして僕の友人の大半がミュージシャンを始めとするアーティストであることを考えると、この静けさはどうかしていると思う。

ネガティヴなことは言いたくない、人に光や希望や夢を与えたいから、疲れた人々に癒しを与えたいからというアーティストたちがいる。結構だ。しかし現実に目を瞑るアーティストが語る夢物語は泡沫(うたかた)である。その場限りの麻薬である。身を投げようかという者に、まあ取り敢えず一杯やりたまえと酒を差し出すようなものである。

束の間辛さを忘れても、希望は生まれない。現実を知り、伝え、共に解決の道筋を探っていく中でしか、真の希望や夢を描いていくことは出来ない。そのような確かな手応えのある希望や夢をアートによって描くことが出来るなら、深い癒しも可能だろう。一方、現実と向き合うのがイヤだと眠りの世界に逃げ込んで、目を醒ましたくないと駄々をこねる者がいたなら、その頬を引っぱたいて現実を突き付けるのもアートの仕事だろう。

いずれにしても、アーティストは覚醒して現実に寄り添って生きていなければ使命を果たすことは出来ない。アーティスト自身が眠っていてどうするのだ。眠る者は夢を語れない。覚醒した者だけが夢を語り得るのである。

原発災害は、10万年単位、100万年単位での未来への想像力を僕らに要求している。それは途方もない時間のようだけれども、元々人類はそのような悠久の時の流れの中、自然と共に暮らす知恵を脈々と受け継ぎながら過ごしていたのだ――1万年ほど前に一部の人類が、自然を征服し世界を我がものにしようと決意するまでは。僕らはそのような時間感覚を取り戻さなければいけない。

100万年前の過去に思いを馳せ、そして100万年先の未来に想像を羽ばたかせ、その大きな時の流れの中で現在を見つめたい。その上で確かな希望の芽を感じられるような作品を僕は書いていきたいし、そのような取り組みを同世代のアーティストたちがもっともっとしなければいけないのではないかと思う。

そんな訳で、まだ出来上がっていない僕の次作には "A Million Years Ago, A Million Years Ahead" というタイトルが付いている。

※追記
"A Million Years Ago, A Million Years Ahead" は2013年6月に完成し、以降必ずMUSOHのライヴで演奏しています。