10/30/2011

自分を捨てたその先に個性は花開く

「自分らしさ」という言葉ほど胡散臭いものはない、と少し前にTwitterで呟いた(その1その2)。自ら「らしさ」を定義することは、結局アーティスト自身が自由な創造への扉を閉ざすことだというのがその主旨だった。その一方「自分らしさ」に縛られたミュージシャンが音楽そのものに与える影響も見逃せない。

「自分らしさ」の表出が目的になってしまえば、音楽はそのための単なる道具になり、音楽そのものが持つインスピレーションは濁って行く。音楽家として僕が心掛けているのは、むしろ自分をどんどん無くしていくことである。仏教で言うところの「無我」の境地はある意味理想だ。まっさらな自分を通して、音楽の抱えているメッセージ、ヴィジョンを濁らせること無く表現し伝えられれば、言うことは無い。

「自分を通して音楽を表現する」のだ。「音楽を通して自分を表現する」のではない。ミュージシャンはmedium=媒体なのであり、インスピレーションのsource=源はあくまでも音楽そのものにある。ただ、無我とはやはりあくまでも理想郷なのであって、人である以上どうしてもその人となりは出てしまう。ここに個性というものが立ち現れる。自分を捨て、音楽に献身的に向き合った結果、どうしても消えずに最後に滲み出てしまうものこそが個性であり、それは自ら決めつけた「自分らしさ」とは全く異質のものだ。

音楽制作とは多くの場合、作曲家や演奏者だけに留まらない複数の人間によるアンサンブルであるから、全員が「この音楽を表現するために我々はどう貢献出来るか」という態度で臨まなければ好ましい結果は見込めない。関わる人々がそれぞれ一つの作品に対して私心なく尽くしに尽くしたその先に初めて、個性の花咲く地平が見えてくる。他の大勢との対話、双方向の批評、協同的な創作プロセス、そうしたものを全て背負った上で花開く個性。それは始めから「自分を出す」ことばかり考え、自分勝手に定義した「自分らしさ」よりはるかに強靭で美しい。

大切なのは音楽そのものが伝わっているかどうか。無心で自分を捧げれば、個性は後から付いてくる。

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