9/30/2011

正解(こたえ)のない創造の海原へ

こと演奏に関してはアガるということが昔から無かった。
アガるという人の話を聞くと、練習なりリハーサルなり、要は準備したことが上手く演奏出来るかどうか不安なのが主な理由であるようだ。
そして不安になるのは準備が充分でないからだとも思っているようだ。

問題は練習量ではなく、準備、練習の仕方と、演奏の際の心構えにあるように思う。
「練習したことが上手く出来るだろうか」という考えは、そこに演奏すべき「正解」があるという前提に基づいている。そのような前提の下に行われる練習やリハーサルは、自ら設定したその「正解」へ辿り着くための演奏の精度を高めることが目的になりがちである。そして本番の自己評価も、自ら定めた「正解」にどれだけ近付けたかを基準になされることになるだろう。

しかし「正解」は、即興であるなしに関わらずステージに立つその度に異なるのだ。メンバーの調子によって、現場の音環境によって、その時に出されたテンポの微細な違いによって、そしてその時一回限りの聴衆と共に生み出される場のダイナミクスによって。従ってこれは正解が無いのと同義だ。

中でも聴衆との関わりをどう意識するのかは重要である。「オーディエンス参加型」などと称されるコンサートがあるが、何も手拍子をしたり一緒に歌ったりしなくても聴衆というのは本質的にそのライヴ空間に参加しており、場の決定に深く関わっている。ステージの内側で完結せず、聴衆と共に音楽を創っているのだという意識で演奏しているか。さもなければミュージシャンと聴衆は「相対する」他者となり、そのステージは練習したこと(或いは仕込んだネタ)を「発表」するだけの場になるだろう。しかし聴衆が一緒に音楽を創り出す「仲間」であり、ステージの行方はその時々の流動的なものであり、正解など無いのだと知れば、発表会的な図式から解放されて自由な創造の海へと漕ぎ出す勇気を得ることが出来るだろう。

正解(こたえ)のない創造の海原へ恐れず漕ぎ出すためには、環境、状況の変化に柔軟に、自由に対応するための技術と気構えを持っていなければならない。
練習は身体の自由度を高めるために網羅的に行い、「音楽的なフレーズ」をストックすることには拘らない。正解のない創造の海原では、前もって用意したネタなど役には立たないのだ。メンバー、そして聴衆との絶え間ない呼応の中で、押し寄せるインスピレーションの波をどう乗りこなして行くかは、その場の瞬時の判断に委ねられている。そして何が起こるか判らない未来を喜んで受け入れる度量と好奇心が、その判断を支え、導いてくれるに違いない。

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